3‱ の人生(サンパーミリアド)

スキゾイドとアロマンティックアセクシャルとニヒリズムを併発した一般男性の手記

青年Aの独白

僕には感情がない。いや、正確には"なくなって"しまった。それがいつのことだったか。何を原因とするのか分からない。人生の中で僕という人間を形作るための出来事はいくつかあった。その全て、いずれかが絡み合って自分を作り、その過程で感情というものは抜け落ちてしまったのだと思う。誰しもが成長という過程で様々な経験を糧に自己を形成し豊かな感情を宿していく中で自分は取り残されてしまったのだ。

 

感情がない。といってもゼロではない。日常的に笑うことはできるし普通の人の様に会話ができる。皮肉を効かせて対話をすることもできる。しかしそこに普通の人の様な感情の動きはない。「最近楽しいことあった?」「最近嫌なことがあって」、日常会話の常套句。自分はこの手の問に答えられたことがない。最近あった楽しいこと、それを思い出そうとするといつも小学生の頃を思い出す。確かに楽しかったあの頃。最近あった嫌なこと、高校生の頃を思い出す。あの時は結構毎日辛かったから。"最近"も楽しいことや嫌なことはあったはずだ。実際、他人の話を聞けば「あぁ、その程度でいいのか」と思う。だから自分にも感情はあったのだと感じる。しかしそれは失われてしまった。日常に起こる些細な出来事に感情が動かなくなってしまった。何を楽しいと感じ、何に憤ればいいのか、考えないと分からなくなって、考えても答えが見つからなくなってしまった。日常的に感じる少しの感情の変化。通常はこれがもっと大きく揺れ動くのだろうと思う。

 

僕には人間が大袈裟に見えている。冷たい言い方をすれば、くだらないことに諸手を挙げて大喜びして、取るに足らないことで憤慨し我を忘れて泣き叫んでいる。それ自体がとても下らないと思う反面、とても羨ましいと感じている。彼らを人間的だと感じるその裏で、自分は人間ではないのだと感じずにはいられない。人間が全て同じだと思ってはいけない。例えそれが世間一般で大多数の共通認識だとしても、1万人のうちただ1人だけ違うことは当然のこととして有り得るのだ。

 

人はなぜ生きているのか。成長の過程で考える人も多いだろう。自分なりの答えを見つけて生きる人。答えを探すために生きる人。他人の言葉に希望を見出して生きる人。そんなことどうでもいいと生きる人。色んな人がいるのだろう。こんなことは子供のうちに考える戯言で大人にもなって「何の為に生きるのか」なんてことを真顔で言おうものなら冷めた目で見られることもあるだろう。でも自分はずっとその答えを問うている。自分自身に対する答えは自分も子供のうちに見つけている。だが他人はどうなのだ?それが気になる。感情豊かに喜怒哀楽と共に生きる人達は、何を感じ、何を目的として人生を歩んでいるのか?それは自分には思い至ることもできない。言語化はできてもその感情を知ることはできないから。そして、おそらく想定されるいくつかの答えは、自分の出した答えとは明らかに違うことは容易に想定できる。理由は簡単だ。僕と同じ感情であるなら、そんな風に生きることは叶わないからだ。誰しもが夢を描いている。お金持ちになりたい。理想の家庭を築きたい。有名になりたい。自分の好きなことだけをして生きていたい。そういったありふれた当たり前の感情すら僕にはない。いや、これも正確には存在はしているのだ。しかし、それはどこか空想に近いもので、現実には存在していないような、とても不確かなものだ。僕にはこれらの夢を実現させる為の感情がない。

人はなぜ生きるのか。問に対する答えはこうだ。理由もなければ意味もない。人類の存続に価値はない。どうせいつか全て無くなるのだから。それが一万年後でも明日でも、何も変わりはしない。だから、自分の人生に意味も価値も存在しない。夢を描く余地すら、存在しない。

"努力できること"は一つの才能

Twitterで「努力できる脳・できない脳があるって話。」という漫画の一コマを読んだのでせっかくなのでそこから広げて話します。

引用ツイートでも言ったんですが、自分も前々から「努力できることはそれ自体が才能だな」と思っていたためこの話に凄く共感できました。

一番分かりやすいのがやはり勉強であったり部活だと思います。みんなが同じような生活をして同じ目標に対して取り組んでいる時間なので。でもその中でやっぱり成績がいい人がいれば悪い人もいるし、部活に真面目に取り組む人もいればサボる人もいる。これって、シンプルな地頭の良さ、例えば記憶力が抜群にいいとかそういうのはもちろん関与してくるんですが、一般的に集まった数十人数百人って実は頭の能力ってそんな変わらないんじゃないかって思ってます。

ここで成績の良し悪しに関わってくるのが、どれだけモチベーションを保てるか、言い換えれば、勉強に対してどれだけ努力できるか、だと思うんですよね。

僕は勉強は真面目にしてたんですが、大学を受験するにあたって「どこでも変わらない」と思ってしまってモチベーションが保てなかった経験があります。

当該ツイートにもありましたが、"努力できる脳"の人は「努力を重ねた先にある報酬を喜ぶことができる人」、"努力できない脳"の人は「重ねる努力と得られる報酬を天秤に掛けて判断できる人」という脳科学的なデータが示されていました(自分なりの解釈になってるので詳しくは元ツイートを参照してください)。

これってまさに「努力できることが才能である」ことの証明だなと思っていて、努力して勉強した先にある"志望校合格"という報酬に魅力を感じられなかったら勉強なんてできる訳ないんですよね。もちろんその過程にある模試の判定が良くなったとか点数が上がったとかっていうのも報酬の一つ一つなので同様です。

もちろん、勉強以外でも同様ですし、「努力できない人は勉強ができない」と言っている訳ではありません。

ただ、自分の個人的な話をすると、"努力できる脳"を持っていた方が人生は楽しいだろうなと思います。

各個人の生き方を否定したい訳ではないですが、やっぱり目標に向かって努力してそれを乗り越えていく瞬間って生きていく上で必要な過程だと思います。

自分はそれができないので、何かに挑戦しては中途半端に終わることが多くつまらないと感じます。

何か目標があってこれから努力したいけど、自分が"努力できない脳"だと分かっているならば、それを踏まえた上で作戦を立てないといけないと思います。

ちょっと話がくちゃくちゃになってしまった感がありますが…私個人は結構苦しいです。

好きで頑張りたいのに価値が見いだせないという状況なので。

もっと若いうちから気付けていたら良かったなと思うので、若者の目に止まることを祈ります。そして、ぜひ自分と向き合ってほしい。

ニヒリズムについて

こんばんは。

今回は当ブログのコンセプトのひとつとしても用いている「ニヒリズム」について少し語ります。

テレビでも「ニヒルな役者」とかって使われることがあると思いますが、「ニヒリスト」と聞いてどんな人かパッとわかる人は少ないんじゃないでしょうか。

ニヒリズムは日本語に訳すと「虚無主義」と言われます。なのでニヒリストは「虚無主義な人」のこと。じゃあ虚無主義が何かというと、簡単にいうと

「自分はどうせ死ぬし世界もいつかなくなる。だったら今生きていることも社会が発展することも何も意味が無い。」(個人的な解釈を含みます。)

といった考え方です。

もちろん自分もニヒリズムを持っています。「〜ズム」って言うと、なんだかその考えに共感してそういう生き方をしてるように聞こえるかも知れませんが、どちらかというと生まれつき(後天的な場合もあると思いますが)の性格みたいなもの、もっと言えば自分は"病気"と言ってもいいと思います。

これは自分がスキゾイド(別記事参照)だからかも知れませんが、生まれ持った性質なのでかなりどうしようもないものだと思います。

他のニヒリストの人と話したことがないので分かりませんが、ニヒリストの人は結構苦しんでるんじゃないかなと思います。

多くの人は将来に希望を思い描いて、夢を見ながら生きています。それが今を頑張って生きる理由であって過去の自分を認める手段にもなるから。ですが、ニヒリストはそれができません。自分の場合、将来自分がどうなろうが興味がありません。明日突然日本という国がなんらかの原因で崩壊したとしてもどうでもいいと思っています。これは誇張でも気取っている訳でもありません。心の底から興味が無いんです。なぜなら、「どうせいつかなくなるものだから。」永遠なんてありません。生命体である限り人は死にます。星もまた命を育んでいます。有機物には終わりがあります。いつか終わるそのタイミングが人間の時間軸で見た時に限りなく遠く、無限に近似できそうに見えるだけで、星という生命の時間軸で見ればその終わりは案外すぐ近くにあるのかも知れませんよね。

まぁそんな神秘的なことを考えている訳ではないですけど、考え方自体はこういうことです。

話が逸れましたが、こういった考えを持っていることで日常生活って結構つまらなくなるんですよね。普通の人が一喜一憂しているものに全く心が動かない、そういうことが多々あります。

人が楽しんでいるのを見て「何が楽しいの?」って冷めたことを言う人がいますよね。口に出す出さないの話はまた別の性質なので取り上げないとして、こういう人ってニヒリストの傾向があると思います(もちろん普通の人が単純に僻んでいるだけの場合もあります)。ニヒリストの場合、これがかなり多くのことに当てはまると思うんですよね。想像して見てください。今自分が好きだと思っているいくつかのこと、これらに対して"自分の心が動かないこと"を。みんなが「面白い」と言っているものを見て(何が面白いんだこれ)と思ってしまう気持ちを。そしてそういう反応に対して世間がどういう目を向けるかを。

ニヒリストは結構生きづらい。と思う。

 

ちなみに自分がニヒリストでありながらさっきから他人事のように話しているのには理由があります。克服した、という訳ではなく、むしろ年々度合いが増している気がします。それでも自分は辛くない。なぜか。それはスキゾイドだから。スキゾイドは人との接触を好みません。普通に会話をしますが、友達と話すことすら出来れば避けたいと思っている人種。ニヒリズムとはとても相性がいい。この2つが噛み合っているおかげでマイナスな性質をいくつか併せ持って生まれた自分も普通の人間のような顔をして平気に生きられているのかも知れない。そう思うと自分は結構ラッキーな人間かも知れません。

 

ま、人生つまんないのは変わりないけど。

終わり。

 

世の中には悪人しかいない

主題の通りです。

世の中には悪人しかいません。

言ってしまえばただの「性善説」「性悪説」の議論ですが、考えるのもバカバカしいくらい、どう考えても人の根っこにあるのは"悪"です。

 

僕はいつも思うんです。「もし、世界に"法律"がなかったらどうなるんだろう」って。

多分ね、そんな世界にはなり得ないんですよね。というか僕らには想像することができない。そうなっている。

人の根源は"悪"ですが、性質はそれぞれです。強い"悪"もあれば弱い"悪"もある。

強い殺人衝動を持つ人、なんとかお金を騙し取ってやろうとする人、人に嘘をつく人、約束を破る人、ゴミを道に捨てる人。

弱い"悪"を持っている人が自分よりも強い"悪"を見た時にどうなるか。

おそらく、「許せない」と思うのだろう。

人への怒りの感情は基本的に「理解できない」が根底にある。人は自分の理解できないものに対して不安を覚え、自分の方が正しいのだと正当化する。より感情の大きく動く人はそこで怒りという感情を持って相手が間違っているのだと自分に言い聞かせる。

僕から言わせれば、その怒りさえも"悪"だ。

 

こんな話をすると、僕自身がよほどの悪人なのだろうと想像されるかも知れないが、事実は全くの逆です。

僕こそが根っからの"善人"だからこそ、世の中には"悪人"しかいないのだと、そう思う。

傍から僕を見た時、悪人だと断定する人は誰もいないと思う。なぜならそのように生きているから。ポイ捨てなんか以ての外、赤信号も渡らないし人を騙すこともしない。模範的な人だとさえ思う。

でも、僕はこれらを子供の頃から意識して行っていた。だから今習慣のようにできる。じゃあ最初はどうだったのか?思い出すことはできないが、僕は知っている。

「ゴミを道路に捨ててはいけないこと」「赤信号では渡ってはいけないこと」「人に嘘をついてはいけないこと」「人を殺めてはいけないこと」

知っているから、できる。

これらは学習によって身についた能力だ。じゃあ、こういった道徳を一切教えない世界だったら?難しい、おそらく堂々巡りだ。

人を糾弾することに生きがいを見出してまう人もいるから。

案外、法や倫理はそういうところから生まれるのかも知れない。

 

人の心は醜いよ。本当にそう思う。

誰もが"悪"を抱えてる。その"悪"を外側に見せないのは勇気がないからだ、意気地がないからだ。それ以前に法と倫理で雁字搦めになっているから、"悪"を露出する人はおかしいんだけどね。

もし、1ヶ月後に世界が確実に滅ぶとしたら。

人類はどうなるだろうね?

犯罪を冒したところで、1ヶ月後には相手も自分も世界も全て跡形もなく消え去っているのだとしたら、あなたはどうしますか?

宣伝じゃないですが、伊坂幸太郎さんの作品で「終末のフール」という小説がありますが、ちょうど今話したことがテーマ…に近いですね。あちらは7年後とかだったかな。興味のある方は読んでみては如何でしょう。伊坂さんらしいポップさの中に色々と考えさせられるものがあって面白いですよ。

ちなみに僕は、世界が終わるとしても犯罪は冒しませんし、糾弾もしませんよ。自己防衛はしますが。

これも、既に今まで生きた蓄積がある人だと同じようになるのかな?分かりませんが。

僕は今までの自分に恥じるような死に方はしたくないので、今まで通り生きると思います。そして穏やかに終わりの時を迎えたい。犯罪行為を働く人を横目に「自分はあいつらとは違うんだ」と言い聞かせながら残りの人生を過ごすんです。

見方によってはこれも"悪"かも知れませんね。

皆さんはどう思いますか?

久しぶりに、今後について感じていること

少し書きます。

書きたいことはたくさんあるんだけど、自分の性格上長くなることは分かってるし、ちゃんと推敲したいから中々実行できずにいます。

 

今日は決意表明というか今後の目標というか、去年色々なものを始めたはいいものの中途半端に全部放ったらかしてしまっていたのでそれらをしっかりやっていこうと思っての投稿です。

 

まず一つは、このブログ。

スキゾイドであること、その生き方について知らない人が知ったら面白いかなと思って始めたものですが、なかなか時間を取れずに放置気味になっていました。

全然投稿してないのに、有難いことに読者になってくれる方もいると分かったのでこれから週1ペースでは何かしら書いていきたいと思います。宜しくお願いします。

 

二つ目は、Twitterです。

このブログにもリンク貼っておきましたが改めて貼っておきます。

https://twitter.com/chaichaikurukur

趣味垢にしようか、活動垢にしようか、日常垢にしようか、結局よく分からずにあまり使ってないアカウントですが、このブログとリンクして動かしていきたいと思います。

基本的にスタンスは同じで、Twitterのトレンドを見てその時々に「なんだかなぁ」とか「これは面白い」と思ったことを完全私見で呟いています。

僕自身あまり頻繁にコミュニケーション取るタイプではないですけど、絡みもOKなので良ければこちらもフォローお願いします。

 

三つ目は、歌です。

一応去年ポケカラというアプリを始めてたまにアイテム送ってもらう程度にはやったんですが、「自分下手くそだなぁ」と思い永遠に修行の旅に出ています。定期的にカラオケ行って練習したり録音したりするんですがどうも納得いかずに結局半年くらい投稿していない。まだまだ下手くそなんですけど、女性キーでも普通に歌える特技を活かしていきたいと思ってるので、近いうちに再開、こちらもリンクして動かしていきたいと思います。

 

四つ目は、YouTubeですが、これはまだ未定。

これまで色々と中途半端になっていることをつらつらと上げてきましたが、「じゃあお前は普段何をしてるんだ」という話で、ここ半年くらいゲームばかりしています。

子供の頃からゲームはたくさんやっていて、出るハードは全部買ってるくらいにはゲーマーです。ただ、RPGとかの1人で遊ぶストーリー系が好きで格ゲーやFPSみたいなオンラインで人と戦うゲームは避けてきていました。理由は簡単で、友達と遊んでるだけなら楽しいけど、オンラインは猛者しかいなくてしんどいから。

しかし改めてこの歳になって、ゲーマーなのにそういうゲームのレベルが低いのかっこ悪いな、と思ったのがきっかけ。

去年からはスマブラでVIPを目指したり、APEXで高いランク目指したりと頑張ってゲームをやっていました。

世の中にはゲーム上手い人が溢れてるし、まだまだ人様に見せられるようなプレイはできないし、しゃべり続けるのも苦手だからゲーム実況なんか向いてないのは分かってるけど、やっぱりゲームが好きである以上憧れるのは必然というか。

自分は普通の人とは違う感性で生きてると思うから、そういうことも含めた上でのゲーム実況とか歌ってみたとか、そんな活動もしてみたいと思っています。

 

以上、僕の今後の方針でした。

ブログから見つけてくれる方なんてほとんどいないと思いますが、良ければTwitterの方見ていただいて、気になったものあればそっといいねなどしていただければ幸いです。

現状、応援してくれる人がほとんどいないことがモチベーションに繋がらない一因でもあるので、1人でも多くの方に見ていただければなと思います。

では、また日曜日までに何か書きます。

これは決意です。それでは。

"誰も"が"誰か"を差別しているという話

最近、LGBT平等法を日本でも制定しようという動きがニュースになっていた。

でも私はこの法律の必要性に少し懐疑的だ。

もちろん、まだ日本ではLGBT等に対する理解が浅く、精神的に傷を負わされる人が多いことは分かる。そしてそれらの行為が許されないことで失くすべきものだということも分かる。

しかしそれを法律によって取り締まるのはどうだろう。

確かに法制化されることによって、無分別な扱いを受ける人は減るかも知れない。しかし私にはそれが表面的なものとしか思えない。

「人を差別してはいけません。」と「人を差別したら罰を与えます。」この2つの間には大きな壁があると思う。

もちろん、理想は前者が当たり前の世界。その前段階としての後者のステップが存在するのかも知れないけど、そうなる可能性は低く感じる。

 

何故可能性が低いと言うか。それは「誰もが誰かを差別している」から。

差別は"しなくてはいけない"んだ。

なぜなら生まれた時から人間はみんな違うのだから。

生まれた国も、性別も、身体的な特徴も、心の形も違う。人より優れた特徴を持って生まれる人もいれば、ほとんどの人が持っているはずのものを持たずに生まれてくる人もいる。

生まれた時から差別されているんだ、全ての人間は。

 

差別という言葉のニュアンスは"上から下"に向かう印象が強いと思うが、差別に決まった方向はない。

例えば、「陽キャラ」と「陰キャラ」という言葉。定義が曖昧な言葉ではあるが、世間の印象で言えば「陽キャラ」よりも「陰キャラ」の方が差別的な意味合いが強いと感じると思う。陰キャラの方が暗い、とかもっと過激なイメージだったりすると思う。では陽キャラは?これは完全に私見だが、やはり世間のヒエラルキーとしては陽キャラの方が陰キャラの上に立っている(実際にはそんなヒエラルキーが存在しないことは置いておいて)。そして、陽キャラが陰キャラを見下す構図が出来ている。その中で陰キャラは陽キャラを僻んでいる、という"よくある構図"。結局私が言いたいのは、この僻みも差別であって、これは"下から上"への差別ということ。自分と違うものに対して抱く"違和感"と"拒絶感"。これこそが差別の本質だと思う。そしてこれは人間が持っていなくてはいけない感情だと思う。

 

本題に戻る。今までの話をまとめると、差別を失くす為に法律を作るのは正しいとは思えない。なぜなら人は生まれながらに違う性質を持ってお互いを差別しているから。そして人は差別しないと生きていけない。ということになる。こう聞くと、さも私が悪人のように見えるがそうではない。

確かに、差別は存在していて人間になくてはいけないもの。では何がいけないのか。答えは簡単で「差別によって人を貶めること」だ。あいつは人よりも背が低い、高い、運動ができない、できる、男のくせに、女のくせに、あいつの家は貧乏だ、金持ちだ。どれも合っていい感情だ、間違っていない。人間は自分が1番大事だ。自分が幸せでないと生きていけない。その1番簡単な方法は「自分よりも劣っている人間を見つけること」だ。これは多くの人が無意識にやっていることだし誰にも責めることはできない。心の内に秘めている間は。この感情が間違いになるのは、それが言葉に、表情に、行動に現れた時だ。その瞬間、貴方の考えは人を傷つけるナイフになる。無意識のうちに人を傷つけてしまう人もいるし、明確に悪意を持って傷つける人もいる。多くの人は無意識だと思う。程度の問題はあるが。そして今この瞬間に「そんなやつはおかしい」などと少しでも思った人がいたらよく考えて欲しい。それこそが私の言いたい差別であって誰もが持ちうる感情だからだ。

だから、「こんなやつおかしい。俺はこいつらとは違ってまともだ。」そう考えるだけで終わる、それでいい。その考えによって他人を糾弾したとき、あなたは差別による"暴力"を行使したことになる、そう思って欲しい。

あなたは「自分が正しい」と思っている。それでいい。だが、同じように他人も「自分が正しい」と思っている。自分の正義と他人の正義は必ずしも一致しない。誰もが等しく幸せな世界は存在しない。人は"人よりも幸せ"でないと幸せになれないから。それは差別のない世界だ。美しいかも知れない。だがそこに感情はあるだろうか。自分と他人は違う。等しくはなれない。大切なのは、差別を尊重すること。相手の違いを認め、受け入れた上で歩み寄ること。人間にはそういった行動もできるはずだ。

 

差別は失くすことはできない。

「誰もが誰かを差別している」から。

その先の行動はその人次第。

歩み寄ることで世界は変わる。

 

 

 

 

しかし、誰もが歩み寄ることはできない。

人間はそういう生き物だから。この話はまたいつか。

 

異常独身男性って何だ?

ふとTwitterを眺めていて目に飛び込んできた言葉。

まぁ調べなくても言わんとすることは伝わるが、なんとなく"異常"という言葉に違和感があった。

簡単に調べたところ、明確な定義は無さそうだが、独身男性の中でもちょっと頭のネジが外れている人(主に自虐)の意味で使われていそうだ。

世間の風潮からすればまだまだ独身男性自体を異常視する目が多いと思うが、そんな異常な独身男性の中でもわざわざ"異常"と呼ばれるんだから悲しいものだ。

 

しかし、常々思うが"普通の人間"とは何なのか?

この世に"普通の人間"なんて存在しない。

偏差値のように数値化すればどうか、そう考えるかも知れない。

たしかに、全国何万人受けたテストで偏差値50、普通の点数だ。

しかし同じように人間の能力を数値化しようとしてもそれはできない。

人間誰しも、人より何かできるものがあったり、人よりも上手くできないものがあるからだ。ある一つのパラメータが偏差値50でも、他の一つのパラメータが偏差値60ならそれはもう普通ではない。

さらに言えば普通か異常かというのは相対評価でしかない。だから、自分から見れば他人なんてみんな普通じゃないんだ。

 

とても話が逸れた。

私の感じた違和感はつまり、「独身男性に"正常"も"異常"もあるのか?」ということ。

普通の独身男性とは何だ?

結婚する気がある、婚活をしている、これらが普通か?

…ここまで言ってこの結論に至るのもアレだが、すごく普通な気がするな。

うん、普通の独身男性は「結婚願望があり努力している人」のこととしよう。

異常独身男性は「30代過ぎても結婚する気のない人」のこととしよう。

どちらも、2021年現在に限っての話だが。

今は確かに、統計的にも生涯未婚男性のパーセンテージは低い。故に結婚しないのは普通ではないだろう。正確に言えば、世間一般の人達から見たら、普通じゃない。前述の通り、私から見れば世間こそが"異常"だから。数十年後には、普通とは言われないまでも、"異常'とは言われない世界になっている。そんな気がする。

 

 

ちなみに、調べている時に面白い記事も見た。

婚活に来る女性が求める「普通の男性」についての記事だった。

かなり割愛するが、普通の男性は6%しかいないらしい、面白いね。

このまま行けば、"異常"普通独身男性 になれそうだ。

 

数ヶ月ぶりに書いたブログがこんなのでいいのかという疑問はさておいて、たまにはこんな感じで思ったことを書き連ねていこう。

Twitterは文字数が少なくて敵わんからな。

良ければ、また読んでくださいね。