3‱ の人生(サンパーミリアド)

スキゾイドとアロマンティックアセクシャルとニヒリズムを併発した一般男性の手記

期待とは罪である。

「期待している」

なんて無責任な言葉だろうか。

一方的に相手に重荷を背負わすだけの、枷。

 

人が失望するのは期待をするからだ。

自分の求める水準に相手が達しなかったとき、人は失望する。

相手がどれほど努力をしようと所詮他人には伝わらない。

なぜなら、相手に期待をしている時点で自分が優位に立っているからだ。

「期待していたのにお前はそれを裏切った。」

「俺がやればできるんだからお前もできるはずだ。」

そんな言葉、感情、表情で相手をただ傷つけるだけの言葉。

 

人が怒り悲しむのは期待をするからだ。

電車の遅延に、突然の雨に、思い通りにいかない人生に。

人はいつも心の中で期待している。

「時間通りに動くから大丈夫。」

「お願いだからもう少し降らないで。」

「あの人がうまくやっていれば。」

期待をすることは自分の幸せのハードルを上げることと同じ。

期待通りで、やっと普通。

期待を下回り、怒り、悲しむ。

期待を超えるのはとても嬉しい、しかし、とても難しい。

期待をしても、うまくいかないから、失望している。

 

期待とは罪である。

苦しみを負わせ、悲しみを生む呪言である。

 

しかし、時に「期待」は成功をもたらす事実もある。

適度な緊張感、期待に応えたいという責任感、責務を全うするための使命感。

それらを上手に煽ることが出来る人が、それらを上手に扱える人に対して発した場合である。

「がんばれ。」「お前ならできる。」

応援のために発したその言葉は、果たして相手にはどう吸収されるか。

今一度考えるべきだ。”無責任な言葉”で相手に枷を嵌めていないかを。