期待とは罪である。
「期待している」
なんて無責任な言葉だろうか。
一方的に相手に重荷を背負わすだけの、枷。
人が失望するのは期待をするからだ。
自分の求める水準に相手が達しなかったとき、人は失望する。
相手がどれほど努力をしようと所詮他人には伝わらない。
なぜなら、相手に期待をしている時点で自分が優位に立っているからだ。
「期待していたのにお前はそれを裏切った。」
「俺がやればできるんだからお前もできるはずだ。」
そんな言葉、感情、表情で相手をただ傷つけるだけの言葉。
人が怒り悲しむのは期待をするからだ。
電車の遅延に、突然の雨に、思い通りにいかない人生に。
人はいつも心の中で期待している。
「時間通りに動くから大丈夫。」
「お願いだからもう少し降らないで。」
「あの人がうまくやっていれば。」
期待をすることは自分の幸せのハードルを上げることと同じ。
期待通りで、やっと普通。
期待を下回り、怒り、悲しむ。
期待を超えるのはとても嬉しい、しかし、とても難しい。
期待をしても、うまくいかないから、失望している。
期待とは罪である。
苦しみを負わせ、悲しみを生む呪言である。
しかし、時に「期待」は成功をもたらす事実もある。
適度な緊張感、期待に応えたいという責任感、責務を全うするための使命感。
それらを上手に煽ることが出来る人が、それらを上手に扱える人に対して発した場合である。
「がんばれ。」「お前ならできる。」
応援のために発したその言葉は、果たして相手にはどう吸収されるか。
今一度考えるべきだ。”無責任な言葉”で相手に枷を嵌めていないかを。